☆彡映画「単騎、千里を走る。」

kirokuyaさん、主人、私で高倉健さん主演の「単騎、千里を走る。」を観た。中日合作映画のため盛っている部分もあるかもしれないが、なんだか私は中国の人がとても好きになった。
 高田剛一(高倉健)とからむ中国人ガイドや通訳の人もすごくいい人だし、仮面劇役者 李加民の私生児、ヤンヤンと彼が住んでいる村の人たちが最高。
 母親を亡くした孤児を村人たちで協力して育てたり、珍しい外国人旅行者が来たからといって道にテーブルを並べて百人規模の歓迎お食事会をしたりするのは、田舎の村ならではの光景なのだろう。お食事会の端っこの席の人なんて剛一の顔すら見えなくて、何のお食事会かもあまり考えず、周りの人たちとにぎやかにしゃべりながら食事をしている。
 孤児のヤンヤンを父親に逢わせたいという見知らぬ異国人の願い。それに対して、村のみんなできちんと話し合い結論を筋立てて説明するとか、いったん決まった事柄でも相手の意見を柔軟に受け入れて変更するとか、すんでのところで大事故につながるような出来事があった時も、結果オーライでひとつも剛一を責めたりしないとか、この村人たちの振る舞いが大人として洗練されたすばらしい振る舞いで、思わす涙が出た。都会に生きる人たちがとうに失ってしまったものをこの人たちは持っている。ことあるごとにネット上でへ理屈としか思えない理論を展開しているような人たちよりも、この山奥の田舎に暮らしている人たちの方がはるかに知性的なのだ。そして今でもきっと、世界のここかしこにこういう村が存在しているのだろうと思う。

 

こういうことを知るために映画などの芸術に触れることはとても大切だ。コロナ禍において不要不急といわれた芸能芸術に、実は人間を救う大きな力が隠されている。そして国家や政治のイメージだけでその国を語るのでなく、個人や自然や歴史との交流によってその国を好きになることもとても大切だ。だから私は旅をする。

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コメント: 6
  • #1

    kirokuya (火曜日, 08 10月 2024 04:37)

    昨今、中国の一部政治的、軍事的な動きで、好きな国ではないのですが、この映画で、かの国の田舎の方の人達の素朴で単純で優しい面に触れ、心洗われました。テーマは父親と息子の付かず離れずの心情。鋼一とヤンヤンが
    山で心通わせたちょうどその時に、東京では疎遠になっている息子が〇ぬという設定は象徴的に過ぎるが、チャンイーモウ監督が健さんを見事に使いきった秀作。また数万人の中から抜擢されたヤンヤンくん好演、かわいすぎ!
    中国の広大な風景をふんだんに取り入れ、仮面劇を紹介した監督の祖国への愛も伝わってきた。
    村長カッコイイ!…現地ガイド愛くるしい…また観たい映画になりました。

  • #2

    雛澪 (火曜日, 08 10月 2024 09:56)

    私は田舎の人たちにあまり「素朴」とは感じなかったんです。
    むしろ「知的、理性的、成熟、都会的で洗練された」という印象を受けました。
    ブログ中「都会に生きる人たちがとうに失ってしまったもの」というのも
    これらのことです。
    逆説的に聞こえると思いますが、人とのつながりが強い村の歴史の中で
    脈々と受け継がれてきた生活上の哲学・知性を失っていないからこそ
    「単純」な行動に深い真理が表れるのでしょう。
    余談ですが、今、あえて「都会的」という言葉を使いました。
    昨今の、何から何まで叩きたいという傾向をもってすれば、言葉尻をとらえて
    差別的だと言われるのでしょう。
    しかし私はこの局面では田舎の人を賞賛する言葉として「都会的」という
    言葉を使っています。
    「都会」と「田舎」には特に優劣はなく、それぞれの特徴を述べているまで。
    さあどうする(笑)

  • #3

    kirokuya (水曜日, 09 10月 2024 04:14)

    ー都会的ということー

    残像として残っている一つの思い出から。昭和41年、中学校の修学旅行で大(都会)東京へ初めて行った。街行くおネエさんが皆んなミニスカートをはいていた。心ときめく思春期のボク。まだまだ(田舎)だった茨木市では、そんなに普及していなかった。

    日本の場合、田舎という言葉が生まれた時(いつか知らんけど)から戦後の高度成長期あたりまでは、所謂田舎という概念が、都会という概念と対をなすものとして、蔑視されてた時代が長くありました。しかしそれ以降はマスメディアなどによる情報や交通網の発達により、衣食の文化が全国的に平準化され、田舎の都会化がすすみました。今では、自分の出身地を伝える際または相手の出身地を尋ねる場合にイナカという言葉を使うぐらいではないでしょうか。イナカモンという言い方もめっきり聞かなくなりました。*幸福の黄色いハンカチで、武田鉄矢:このイナカモンが!とやたら使っていたのが記憶にある最後です。

    中国の場合も同じくだと思いますが、国土面積が広大な分、交通網が行きわたらず、都会までは程遠くという環境下、都市化が進みにくいと思われます。映画では、西遊記にでも出てきそうな全くの田舎でした。そこでは、村長を中心に村人による合議で、知的に、理性的に運営されています。小さなコミュニティにも中国4000年の伝統文化が脈々と…。同じアイデンティティ、風習、規律に則って暮らし続けているのでしょう。都会化、平準化された日本人が忘れようとしている(おおらかさ)がそこには残っている。このおおらかさが私が感じた(感じている)素朴さです。

    受刑中の父親に代わって、幼い息子を村人皆んなで育てる!なんとユートピアでしょうか。転じて私の体験した日本では、昭和30年代の田舎だった茨木市、実家の隣近所では夕飯時の調味料の貸し借りや(お裾分け)の習慣?はまだ残っていました。また、我が家の玄関、木製の引き戸にネジ込み式の鍵はありましたが、施錠はほとんどしていなかった。少しユートピア。
    また、私若者の頃、引っ越し屋のアルバイトで鹿児島のとある村(どこか忘れた)まで運んだ時、近所の男衆が総出で手伝ってくれ、あっちゅう間に終了。長距離便の降ろしは朝。その時のドライバーさんとボク大歓迎され、朝から飲めや歌えのどんちゃん騒ぎなんてこともありました。まだそんなおおらかな土地柄の田舎があるのを希います。きっとまだあるでしょう!
    ブログのコメントにしてはエライ長なってもたがな(汗)

    東町キネマ次回上映。
    *蒲田行進曲(1982松竹、原作つかこうへい、監督深作欣二、キャスト松阪慶子、風間杜夫、平田満)
    32インチワイドスクリーン総天然色
    乞う御期待!

  • #4

    kirokuya (木曜日, 10 10月 2024 01:25)

    訂正。
    松阪慶子→松坂慶子

  • #5

    雛澪 (木曜日, 10 10月 2024 09:56)

    ロンコメ(長文コメント)大歓迎です。
    昭和41年で大阪の中学校の修学旅行が東京だったなんて、ハイカラな学校です!
    私も子供の頃の記憶に、調味料の貸し借りはかすかにあるような。
    コンビニなどなく、スーパーも夜7時で閉まっていた時代ですね~。

    小学校3年生まで父の会社の社員寮に住んでいたので、近所付き合いがさかんでした。
    ある日、母が同じ寮に住むおばちゃんと2人で車に乗って出かけました。
    少し離れた町のミカン狩りか何かのイベントだったと思います。
    私の部屋でおばちゃんの子供と遊んで待っていると、夕方に別のおばちゃんが来て
    「今、電話があった。お母さんたちは事故で渋滞してて帰りが遅くなるって。
    おなかすいたらいけないから、ごはん持ってきてあげたよ」
    私たちは「お母さんたちが事故……重体……」と恐怖の渦に巻き込まれました。

    すみません「重体」は大人の私が創作しました。
    でも大人って簡単に「事故で」って言うけど、生きる世界がせまい子供は
    自分の側が事故にあったと思うんですよね。
    懐かしい、近所づきあいの思い出です。

  • #6

    kirokuya (金曜日, 11 10月 2024 02:41)

    当ブログを使わせてもらって、私が体験した昭和のことごとを少しでも伝えていけたらと思います。もちろん筆者さんの発信された事項に則して…

    フォローコメントありがとうございます。

    そう!昭和41年はツイッギー(英·モデル)さんが痩躯にミニスカート姿で颯爽と日本上陸した年なのです。うん?その前年だったかも知れん。調べときます。